院長 須郷 暢 の自己紹介
| 経歴 | 昭和62年 北海道大学歯学部卒 昭和62年~平成2年 大阪大学口腔外科在籍 平成2年~平成7年 鳳友会平野町歯科勤務 平成8年 須郷歯科医院開設 平成18年 スゴウ歯科クリニック移転開設(現在地) |
|---|---|
| 所属学会 | ・IPOI臨床研究会 ・床矯正研究会 ・国際歯周内科学会研究会 ・Study group s.g.i.c |
| 血液型 | A型 |
| 動物占い | 活動的な子守熊 |
| 趣味 | テニス、ゴルフ、旅行、読書 |
| 患者様へひと言 | 他でなく、ここにきて良かったと思っていただける医院になれるようがんばっています。 |
子供時代
うちの父親は高校の先生でした。とても真面目な父親で、仕事が終わったらまっすぐ家に帰ってくる人でした。ただ非常にきびしかったのをおぼえています。
夏休み、小学校2年か3年の頃でした。よくプールに連れて行ってもらいました。
こう書くと、ほのぼのとしたプールサイドで父親とアイスクリームでも食べている情景がうかびますが、全くちがいます。
プールの端から、父親のいる5メートル先まで泳がなければなりません。
足はプールの底に届きません。泳げません。当然沈みます。もがきます。
水もたくさんのみます。
でも出来るまで何度も何度もくり返しです。
できたら次は7メートルです。
このプールの水の半分ぐらいは自分の涙かと思ったほどでした。
次の日学校で、おまえの父ちゃんてこわいなあとよく言われました。
おかげで、5、6年の時には、水泳だけは一番でした。
辛抱強くあきらめない性格はこのとき身についたのかもしれません。
大学への進路
中学、高校となにも考えずに過ごし、
高3のとき、模試の前日に友達とはじめて麻雀をして、つぎは勝ちたいと思って、徹夜して、自作の麻雀カードをつくりました。ばかです。とうぜんのことですが、拾ってくれる大学はなく浪人生活となりました。
でも相変わらずだらだらした生活はかわらず、再度の入試となりましたが、全滅でした。
あのプール以来、なみだがでてきたのを覚えています。もう次はない、したくないの一念で頑張ったと思います。あれほど勉強した一年はあとにもありません。
そのおかげで大学にいくことをやっと許されました。しかもこの年は全勝でした。
ささやかな自慢話ですが。努力と結果は比例するんだというんことを、おぼろげですがつかんだ受験時代でした。
大学に入ったら、あこがれの大講堂で、講義をききまくるという夢をもっていました。東洋史、西洋史、哲学、履修届は出したものの、出席日数はひとけたでした。
なにをやっていたのかといえば、高校の時中途半端だった、テニスにのめりこみました。
ひそかに、四年間で北大歯学部テニス部を北海道一部リーグにあげ(当時は三部だったとおもいます)、さらに優勝するという目標をたてました。その予定はかないませんでしたが、そこそこテニスは上手になりました。
そんな調子ですから、学業はさっぱりでなんとか卒業し、大阪に帰ってきました。
勤務医時代から開業へ
大阪では大阪大学口腔外科の医局に残り、外来にて基本的な処置手術を学びました。
また病棟において、入院患者さんの担当も経験しました。
顎矯正、口唇口蓋裂の手術を終え、笑顔で退院された患者さんや、残念ながら口腔癌で亡くなられた患者さんなどさまざまな出会い別れがありました。
その後都会の診療所で一般診療を、郊外の診療所では在宅診療や関連病院への往診をおこなっていました。
このような経験をしていくなかで、自分が目指しているものは何か、本当にやりたいことは何かとつねに疑問がありました。大阪大学時代の外科の経験、都会診療所での一般歯科、郊外診療所での義歯の治療の経験を総合的に活かせるのは開業医としてやっていくことが道であると結論しました。
そこで堺市中区土師町にて開業を決意しました。
現在年齢層は0~90歳まで、地域は土師町を中心に豊中、岸和田、和歌山、なぜか九州また香港(赴任のためですが)、アメリカ(留学、帰省した時)からもこられています。
スゴウ歯科のめざすもの、理念、志
0~20歳は自分の子供だと思い、20~60歳は自分の兄弟いとこだと思い、70歳~は自分の親だと思い治療にあたっています。
地域一番歯科医院になること
私のめざす地域一番とは
患者さんの通いやすさ地域一番
スタッフのやさしさ地域一番
スタッフの働きやすさ地域一番
治療の技術地域一番
です
さらに皆さんのためになるよう頑張っていこうと思っています
〒599-8238
当クリニック自慢のスタッフたちををご紹介させていただきます。みんな真心を込めて日々働いております。